自分の帰る場所(本人)


「こころの元気+」2008年10月号より


特集4 自分の帰る場所である家族  茨城県/あゆみ

家族に病気を告白

私は二五歳の女性です。統合失調症になったのは、二〇〇一年、私が大学一年生の冬でした。
そして、二〇〇三年の春休み。それまで私は、大学近くのアパートで一人暮らしをしていました。
その頃、病状がいよいよ悪化し、大学に登校拒否状態になりながらも、どうにか進級できました。しかし一方で、「もう限界だ」という気持ちもありました。

両親は同じ県内に住んでいましたが、帰省しても病気のことは隠し続けていました。病気を理解してくれるかどうかも不安でしたが、何より、両親に心配をかけたくなかったのです。
そして、私自身が半ば強引に行くと言って行った大学だったので、絶対に両親に迷惑をかけてはならないという、意地にも似たよけいなプライドがあったのです。
しかし、春休みには、学習塾の春期講習のアルバイトがあり、その授業準備や実際の授業に追われ、帰省することなどできる状況ではありませんでした。それでも、自分の中で、
「このままでは危険だ」
という本能的なものが働いたのでしょう。春期講習の合間にあった一日だけの休みを利用して、実家に帰ることにしました。

そして駅まで迎えに来てくれた母親を見て、それまで張りつめていた糸が切れたのでしょうか。家までの車の中で、涙が止まりませんでした。しかし、母は動揺した様子も見せず、家に着いてから、ただ、
「お風呂に入っておいで」とだけ言ってくれました。
翌日の朝になっても涙は止まらず、「もう潮時だな」と感じました。
そして、ついに両親に、病気になったこと、薬をのんでいること、今の状況など、すべてを話したのです。
怒られるかと思いました。しかし、両親は泣きじゃくる私にただひとこと、
「どうしてもっと早く教えてくれなかったの?」
このことは今でも、両親にとって後悔していることのようで、今でも胸が痛みますが…。
「がんばりすぎただけだよ」次の日、母は、私にアルバイトを休ませ、母が若い頃よく来たという公園に連れて行ってくれました。
その公園は高台にあり、眼下に町並みが見下ろせました。母は住宅街を見下ろしながら、
「一軒一軒、みんな幸せそうに見えるかもしれないけど、それぞれいろんな苦労を抱えてるもんだよ。あゆみは今まで苦労しなさすぎただけだよ。がんばりすぎただけだよ。いいよ、つらかったら戻ってきても」
と言ってくれました。私はまた泣きそうになりながら、涙を必死でこらえていました。

それからというもの、両親は、がんばりすぎるくらいがんばってくれました。病院まで付き添ってくれたり、引越しや退学の手続きをするために、わざわざ大学に来てくれたり…。
「連絡してこなかったから、てっきり大学生活を楽しんでいるのかと思ってたけど…」
アパートの空っぽの冷蔵庫を見ながら母が言ったのを、今でもよく覚えています。

家族に伝えたい言葉

そして今は、父、母、私の三人で暮らしています。父は、精神病患者にどう接したらいいのか、初めは戸惑っていましたが、今は父なりに理解しようとしてくれています。
母も昔は、「早く仕事についたら?」などと言っていましたが、今は「あせらなくていいよ」と、あくまでのんびりと構えてくれるようになりました。

すべてを捨ててでも、帰る場所がある…それは、本当に幸せなことです。あの日、何も言わずに帰る場所をつくってくれて、そして今も温かく、時にきびしく見守ってくれる両親に、面と向かっては言いにくいけれど、一番伝えたい言葉はやっぱり、
「ありがとう」。