元気になる人は「どん底」を経験している(医師)


こころの元気+」2008年1月号より


元気になる人は「どん底」を経験している
東洋大学ライフデザイン学部  白石弘巳

 

「どん底」体験とは?

辞書で「どん底」を引くと「一番下の底、ものごとの最低、最悪の事態」と書いてあります。
精神疾患では以前から「どん底」をきっかけにして回復の過程が始まるという考え方がありました。

たとえば、アルコール依存症では「底つき」という言葉があります。
アルコール依存症の患者さんの多くは、自分のおかれた困難な状況に目をつむり、人の忠告にも耳を傾けずに飲酒を続けるうちに、徐々に症状が深刻になり、早晩、どうしようもない状況に陥ってしまいます。

ある人にとってそれは会社からの「解雇通知」であったり、妻からの「離婚届け」であったり、医師からの「今度吐血したら死んでしまうよ」という「さじ投げ」であったりします。
「底つき」とは、飲酒を継続すると、自分がこれまで大切にしていたかけがえのないものを喪失する崖っぷちの状態です。

このとき絶望してさらに酒をあおってしまう人もいるでしょうが、なかには周囲の人が語る「回復」の希望に耳を傾け、それを唯一の救いの道と感じて回復の道を歩み始める人が出てくるというのです。

統合失調症における「どん底」

統合失調症の患者さんやご家族も「どん底」を経験されていると思います。
まず、ご家族にとっての「どん底」は、発病後、病院に行くことを拒否して家にこもっていた時期であることが多いようです。

それに対して、ご本人の場合は、むしろ入院後を挙げる人が少なくありません。
「何で自分はこのような病気になったのか」と嘆き、
「もう一生この病院から出られない」
「自分の人生はもう終わりだ」
と絶望的な気持ちを口にされる何人もの患者さんに私は出会いました。
こうした患者さんにとって絶望を感じた一瞬が「どん底」であったのだと思います。

キルケゴールという哲学者はかつて絶望を「死に至る病」と呼びました。
患者さんの病識のなさと呼ばれる現象は、病気を認めることで生じる絶望感から必死で我が身を守っている姿とも見られます。
でも、幸いにして、治療法の進歩などにより、最近は大多数の方が軽快して早期に退院するようになりました。
それでは退院のとき「どん底」体験は、消えているでしょうか?

「どん底」は次々にやってくる

夏目漱石は四三歳のとき、胃潰瘍からの吐血のために一時危篤に近い状態になり、その後回復したときの心境を「生きて仰ぐ空の青さや赤とんぼ」と俳句に詠んだそうです。
私がこの句から感じるのは、「今、ここに」あることの満足感です。

SSTの実践家として有名な高森信子先生はいつも「生きているだけですばらしい」とおっしゃいます。
漱石の俳句に込めた気持ちと高森先生の言葉には通じ合う部分があります。

これに対し、退院される統合失調症の患者さんは「今、ここに」あることに満足する心境になく、遠くにある自分の目標に早くたどり着こうとあせっている方が少なくないように思います。
今できないことをやろうとすれば、不安も高まります。
本当は「急がば回れ」のことわざにもある通り、退院後まずはゆっくり行く方が遠くまで行けるのですが、すぐにそんなふうに考えられる人は少ないのです。

その結果、無理をしたり、薬をやめて再発し、また再入院を余儀なくされる方がでてきます。
一度は症状が軽快して、気力を取り戻し、精一杯自分がよかれと思うチャレンジをしたのに、それが成功しなかったらだれでも、絶望とはいわないまでも大なり小なりの失望を味わうでしょう。
ちょっと大げさに言えば、こうした患者さんにとって人生は大小の「どん底」の繰り返しと感じられるかもしれません。

「どん底」体験とは何か

精神疾患の方が、自分にとって最善の方法と思って必死の努力を重ねても、うまくいかない、あるいは、やればやるほどうまくいかなくなる、ということは、実はよくあります。

たとえば、手についたばい菌を落とそうと長時間手洗いする不潔恐怖症の人を例にとると、本人がよかれと思ってやっている長時間の手洗いは、周囲から見ると病気の症状です。
いくらがんばってもつらさが解決せず、むしろかえって悪くなることに気づき、しかも他に方法がないと感じたら、人は絶望してしまうでしょう。
でも、本当は他に方法がないわけではなく、周囲の人々が心配して提案している別の方法を本人が受け入れられないでいることの方がはるかに多いのです。

結局、こうした方は「一人ぼっち」で闘っているのです。
先述のキルケゴールも絶望は人間関係の中で生じるのであるから、自分だけで絶望を取り除こうとするならば、ますます絶望が深まるばかりである、というようなことを言っています。
つまり、一人で闘って万策尽きたときの状態が、「最大のどん底」状態です。
こんな状態では、本当に生きていることに耐えられなくなってしまうことすらあるでしょう。

「どん底」は病気の重さとは違うもの

生きていることに耐えられなくなるほど苦しい状態が「最大のどん底」状態であるとすると、自ら命を断たれる統合失調症の方は、そうした「どん底」を経験されたのだと思います。

実は、とても悔しいことですが、私の知っている方の中にこうした方が何人かいらっしゃいます。
皆さんとても真面目で、誠実に自分の人生を切り開いていこうと努力されてきた方々でした。
もちろん平素は病気のことをよく理解され、自己管理にも気を配っておられた方々です。

そんなことから周囲の人たちからは「病気が軽い」と見られていた方が少なくありません。
そういう方が亡くなられるとわれわれは「なぜ」という気持ちを禁じ得ません。
でも、後から振り返ってみると、そういう方も社会に生きづらさを感じていたという点では、他の同病の方々と何ら変わりがなかったことに改めて気づかされます。
つまり、「どん底」は誰にもあり、それは必ずしも症状の重い軽いとは関係ないと考えるべきです。

自分を信じ、人を信じること

崖っぷちの状態に陥った患者さんが、周囲から聞かされた「回復」の物語を信じ、希望を抱くことによって回復の過程が始まると考えられていました。
同様に、統合失調症の患者さんも、自分の回復が信じられるような希望を語ってくれる人を必要としています。
それは、主治医や精神保健関係者であるかもしれませんし、あるいは仲間の患者さんたちであるかもしれません。
誰かの言葉を信じるということは、誰かを信じることにつながります。

大切なことですが、それは結果として成功しなかったそれまでの自分(の努力)を否定することではありません。
むしろ、そうした努力の歴史があったからこそ、人の話に耳を傾け、人を信じることがようやくできるようになったと考えるべきです。

五島美代子さんという歌人が、「おとしあな設けられなば そを踏みておちいりてのちまた行かむわれは」という短歌を残しています。
私はこの短歌が詠まれた経緯を知りませんが、自分を信じて、失敗や挫折があってもそれを受け入れ、乗り越えて生きていく強い決意を感じてはげまされます。

回復を信じ、「今、ここで」生きていくこと

人々が「どん底」から再び力強く復活してくるのは、自分を信じ、人を信じられるようになった人が、まず「今、ここで」生きていることをありがたいと感じる気持ちを持てたときではないでしょうか。

ちなみに、五島美代子さんは、「めさむればいのちありけり 露ふふむ朝山さくらぬかにふれゐて」という短歌もつくりました。
中学生の頃、国語の教科書で習ったときから、私は「めさむればいのちありけり」という句がずっと心に残っていました。
目が覚めたとき生きているのは当たり前のことなのですが、実は、当たり前のことがとてもありがたいことなのだ、と気づくことは私たちの生き方を変える力になります。
そして、「どん底」から回復した多くの人びとは、このことをすでにいろいろな形で経験していらっしゃるのではないかと感じています。

 

こころの元気+」2008年1月号より