特集1 メンタルヘルスには笑いが必要(220号)


特集1
メンタルヘルスには笑い必要(220号)

○「こころの元気+
2025年6月号より
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筆者
向谷地生良(むかいやちいくよし)
北海道医療大学浦河べてるの家


前科一億犯の彼女

10年以上も前になりますが、北海道の浦河に1人の統合失調症をもつ女性が“短期留学”と称して訪ねてきたことがあります。
「世界中の事件や事故は、私のせいです」と語る彼女は、自称“前科一億犯”の自分を罰するように、発作的に顔面をはげしく殴打するクセが止まらず、入退院をくり返していたのでした。

その彼女が、浦河にある浦河べてるの家の活動に参加するようになって間もなくのことでした。

 

車の中で

3月のみぞれが降る夕方に4人の女性メンバーを家に送り届ける車中で、助手席に乗った彼女が、仕事仲間との間で、ちょっとしたいさかいがあったことをこぼして、
「向谷地さん。顔をたたきたくなった…」とつぶやいたのです。

一瞬、ドキッとしましたが、私は冷静に「こんなとき、今までは、どうしてました?」と聞いてみました。
すると彼女は「私は注射を打たないと止まらないんです」と言うのです。

車内は緊張感につつまれて、他の3人の女性メンバーは、突然の事態に困惑し、押し黙ったままでした。

 

言ったとたん

そこで、私は意を決して
「浦河に来てまで注射を打つんだったら、今までと変わらないから、さあ、どうしたらいいか一緒に研究しよう」と言ったとたん、彼女は「もう、ダメ!」と言って、はげしく顔面をこぶしで殴打し始めたのです。

私は、とっさに後ろに乗っている女性メンバーに録画モードにしたデジカメを渡し、記録をお願いして、
「みんな、どうしたら止められるかアイデアを出して!」
と言うと、後ろの席の女性メンバーは、まるでジェットコースターにでも乗っているかのような悲鳴と喚声が混じった声をあげながら、顔面をなぐり続ける彼女に、
「頭にマフラーを巻くのはどう!」
「自分じゃなくて私をたたいて!」
と声をかけ合いました。

 

そのとき

そのときです。1人のメンバーが、「くすぐってみようか」と言って、顔面をなぐる右腕の脇を“コチョコチョ”したのです。
すると、鬼の形相で自分をなぐっていた彼女が、思わず「ウワ!」と声を上げて“くすぐったさ”に身をよじったのです。

それを見たメンバーが、
「これはいけそう!」と次々に「くすぐり作戦」を始めると、彼女は大笑いをして我に返り、殴打が止まったのです。

車中には「止まった!」という仲間の歓声が上がりました。
10年以上この発作に苦しんできた彼女にとって、病院以外の場所で止まることは初めての経験でした。

そこで運転中の私は、本人にたずねました。
「どうして発作が止まったんだろう?」

すると、彼女はこう答えたのです。
きっと笑ったからだよ

今まで入退院をくり返してきた彼女は、「笑い」を生み出し共有する環境にも、関係にも恵まれなかったのです

 

笑いの力

これには後日談があります。
一貫して
「世界中の事件、事故は私の責任です。本当です。妄想ではありません」
と主張していた彼女が、本格的に自分の苦労に関心を寄せ、「前科一億犯の犯歴」をテーマに研究を重ね、それを浦河で開催された当事者研究の全国大会で発表したのです。

彼女のユニークな発表は、大うけで会場は盛り上がり、ホールは笑いと拍手でいっぱいになりました。

ところが発表が終わって、楽屋に戻ってきた彼女の表情は冴えませんでした。
「いい発表だったね」と声をかけても反応がなく、思い詰めたように彼女は、私につぶやいたのです。
「向谷地さん、私って病気かな?」

それを聞いた私は大笑いをしてしまいました。
まさしく「笑いの力」を実感した瞬間でした。

 


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