発達障害―空気を読まずに、言いたい放題(第1回)


相良真央さん
宮崎青年・成人発達障害当事者会ShiKiBu
連絡先:shikibumiyazaki@gmail.com
Facebook:https://www.facebook.com/shikibumiyazaki/

 はじめまして。私は宮崎育ちの発達障害当事者で、ウーパールーパーを飼っています。「宮崎青年・成人発達障害当事者会ShiKiBu」で、研修や広報紙作成を行う等当事者の声の発信を行っています。
 摂食障害をきっかけに17歳で診断を受け、現在もう33歳です。
 1人ともほとんど接触しない生活が10年以上。接触障害(?)でもありました。今も食事のたびに葛藤はありますが、仲間とのご飯を逃すのは惜しいと思う気持ちが勝って、おいしく食べられています。光に過敏で、運転時には車のLEDランプにまいっています。眠っているとき以外体が痛いですが、鍼は大好きです。

そうありたい

 誤解を承知で、活動を通して仲間と考えた試論を紹介します。
 発達障害者には「裸の」当事者と「服を着こなしている」当事者がいるのではないかということです。
 社会性という服(仮に社会制服と呼びます)を着た当事者は、現実にもきれいに服を着こなし、自分に似合うものを知っているように見えます。
 おしゃれ好きになった、身だしなみが重要だと考えるようになった経緯はそれぞれで、「昔は洋服に関心がないどころか考えるのも嫌だったけれど、人から変な目で見られたことがきっかけで、必死に服装の勉強をした」という人もいました。
 発達障害者の社会制服の着方は何かしらユニークなことが多く、それは少し見たらわかることもあれば、相当なつきあいがないとわからない場合もあります。擬態能力にすぐれた当事者は、よくも悪くも多いと感じます。
 私自身は、わりと武装していることがばれるタイプだと思います。実際の服にたとえると、配色が何かおかしいうえに、気づいてくれた人に指摘してもらえない雰囲気もまとってしまっていて、墓穴を掘ったりします。
 この間は、「どうしてこの人はこれをしてくれないんだろう」といらいらしてしまった後で、そもそも頼んでいないことをいつの間にか求めていたことに気がつきました。指摘してくれる仲間がいたからよかったものの、怖いなと思いました。
 だからこそ、自分が迷惑しているわけでもないのに「洋服に気をつかわないなんて社会性がない」等の安易な他者批判には辟易します。せめて、もとは「裸」だった自分を認めたくないことは自覚してもよいのではと思ってしまいます。

社会制服の着こなし

 私が憧れるのは、裸であることを厭わない当事者です。「社会制服を着こなすべきだ」という多数派のバッシングを承知で、もっと言うと多数派を意に介さず、自分として行動している人に会うと、私もそうでありたいと惹かれます。
 自分の好きなことを知っていて、周囲の目を恐れずそれを実行する人は、実はなかなかいないと思います。実行している(と私には見える)当事者は、やはり他の人とは質の違うすごさを持っていることが多いですし、疑いを持たずそれができることに、「感受性を生かした表現を他者の評価に左右されずに発揮してこそ当事者だ」と憧れます。
 当事者が社会適応のみをめざして服を着こなし、裸の姿を見せなくなってしまったら、理解すべき発達障害者自体いなかったことになってしまいます。
 世間に対してとりつくろうための社会制服で擬態し、そこそこの社会適応者と呼ばれる位置に安住せず、また、社会を動かすためという大義名分を掲げて裸でいるのでもなく、自分の意志で「裸で歩きたいから歩くのだ」と街を闊歩する当事者でありたい。変だ、わがままだという批判を風と受け流す強さを持ちたい。
 今の社会に追随するのでも反抗するのでもなく、各々が怖がらずに自分の姿をさらせる社会をめざすことが、当事者活動の意義だと思うのです。
 これからも、発達障害を軸として、互いに面倒さもおもしろさも楽しむ関係をめざし、仲間に学びながら自分のすべきことを探っていきたいです。