訪問看護師は見た… 親を支えるいろいろな形(専門職)


こころの元気+ 2012年11月号特集より


特集7
訪問看護師は見た… 親を支えるいろいろな形

たんぽぽ訪問看護統括所長
千葉信子


精神に障害をもつことで、本人も家族も長年たいへん苦労されてきました。 
近年やっと、病気を隠した生き方ではなく、自分の病気や体験談を話し、同じ病をもつ方に勇気を与え、病気をもちながらも地域で普通に暮らすというあたりまえのことに主眼が置かれてきました。
こうした歴史をつくってきたのは、家庭によりいろいろ事情があるにせよ、ご家族の切なる思いと、粘り強くがんばってきた積み重ねであり、本人たちの果敢な勇気があったからこそです。

こうした長年の経過のなかで、ご家族は高齢化し、子どもに支えられる時代を迎えます。
つまり今までしっかり守ってくれた親が高齢化し、自分が親を支えなくてはならないときが来ることに対して、漠然とした不安をかかえていたことが現実になるときがきます。
そのときこそ、親子関係を見直し、親なき後の自分の生き方に正面から向き合う機会であり、ある意味でいろいろな決断の時期を迎えることになります。 
実際、訪問看護のご利用者のなかには、闘病しながら親の介護を献身的にされた方々もおりますし、直接的に介護はできなくても、今までの依存関係にあった暮らしから自律した暮らしをめざすことなど、親を支える形はいろいろあることに気づかされます。 
ここでは、高齢化した親に対して自分はどうあるべきか悩みながら、今までと違った生き方を模索し始めた事例をご紹介しながら、親を支えるこんな方法もあるということを考えてみたいと思います。

母親に感謝を伝えたA子さん

A子さんは四四歳の女性で、一九歳になる息子さんがおります。
両親から虐待を受けて成長し、後に結婚した相手はギャンブラー。
子どもをかかえて生活費に困る日々、離婚を決意し、相手に話をしても無視され発病。数回の入退院をくり返しつつ離婚。
闘病と子育てに専念した結果、息子はこの春高校を卒業して就職しました。
訪問看護を受けながら、病気を受け止め、再発しないように心がけるなか、高齢者へのお化粧のボランティアを通して、高齢者の幸せそうな顔を見て感動したA子さんは、絶縁状態であった母をさがして電話しました。

「私を生んでくれてありがとう。息子も就職したので安心してください」、「よかったね、私も歳をとったけど、がんばるから」。
A子さんは、「私は世代間伝搬しないよう、子どもに虐待はしないと心に決めて子育てをした。母もきっとつらい過去があったのだと思う」と話されました。
二年前に訪問看護を開始してから半年間は、親の虐待を受けてつらかったことをエンドレスに看護師に訴え続けてきたA子さんでした。
長年、母を憎むことを生きるバネにしてきましたが、自分が悔いを残さないために、母へ感謝の気持ちを伝えたことで、憎しみは消え、胸のつかえもとれ、その後は「親の虐待」という言葉は皆無になりました。
息子さんは、葛藤しながらも堂々と生きる親の姿を見て、尊敬しながら仕事に専念しています。
高齢者への化粧のボランティアをお願いした私どもは、A子さんのこの変容に感動しました。ほんとにすばらしい話です。
お母さんも和解できたことに安堵されたことでしょう。 
これは、立派な親孝行であり、高齢になった親を支える立場に立った事例といえましょう。

兄の出番で、母なき後の話に心が動き出したB男さん

ご利用者が高齢になれば当然のこと、親はさらに高齢です。 
B男さんは六五歳、同居の母親は九三歳になります。
B男さんは五〇年もの長い闘病歴のなか、今まで何度も自立のチャンスがあったものの、結局、生活スタイルを変えられませんでした。
その結果、現在まで、食事・金銭・タバコの本数まで母が管理せざるを得ない状態が続きました。

母の苦悩に対して、定年退職をされたB男さんのお兄さんがやっと介入し、「どう考えたらいいのか、どんな方法があるのか、母の万が一に備えて教えてほしい」と筆者に相談がありました。
通所の経験もなく守られた快適な暮らしのなかに、突然、母なき後の話と自立の話。
B男さんにとっては青天の霹靂。
高齢とはいえ、目の前の母はまだ元気なのです。
お兄さんには、社会資源の活用の必要性をお伝えしました。
例として、病院のデイナイトの利用、親子の介入に訪問看護の利用、介護保険の申請等の提案をして、一つひとつ時間をかけて進めること等です。
母親には、がんばりすぎず、時には仮病も使いながら息子を頼ることの知恵も方法の一つと …。
息子さんは動揺しつつも、兄の話を「しょうがないなあ」と受け止め、介護保険の申請とデイナイトへの参加を検討し始め、親なき後の生き方の模索が始まりました。

お父さんが私の将来を心配してくれてうれしいと喜んだC子さん

C子さんは四〇歳。
一三歳に発病し、入退院をくり返し、二七年が経過しました。 
C子さんは七五歳の父親との関係性はいいものの、母親は神経症の病名もあり、娘に対して批判的で拒否的です。妹は二年前に結婚しましたが、C子さんには内緒のために毎日実家に通い、家族中が腫れ物に触るような気持ちでC子さんに接していました。
私たちとのかかわりに信頼関係が構築されてきたある日、今までは入院を拒み続けてきたC子さんが、入院したいと言い出しました。 
「家は気持ちがそわそわして怖い、どなりたくなるし、幻覚も出てくる」と、休息入院をしました。 
入院後は何度も私どもから病院に、カンファレンス(協議会)の開催をお願いしました。
C子さんから退院したいという言葉がないこと、本人もご家族も外泊さえうまくいかないと感じたこと等を考え、今後の自立に向けての方向性にかんする協議が必要に感じたからです。

まずはIADLである洗濯や部屋の掃除、ゴミ出し、服薬管理等の自立をお願いしました。
しかし、カンファレンスの席上で父親が、「自分が一〇〇歳になれば娘は六五歳、そうなれば病気もよくなるでしょう。それを信じて退院させたい」と思いがけないことを言い始めました。
しかし、母親も妹も反対。
意外にもC子さんも退院を望まず、父親は動揺しました。 
自立の機会になるのではないかと、C子さんの気持ちをたずねながら、地域のグループホーム、ケアホームの見学をすすめてみて、家ではない退院の仕方もあることを伝えました。 
拒否するかと思った見学は、思いがけず「こんな方法もあるんですね、お父さんも見学してくれたんですね」とニコニコ。
「高齢の父と病気の母に迷惑はかけられないし、妹もいないし、私は私の生き方を考えないといけないのですね」とさらりと話されるのでした。
一番の心配は、心配で手放せない「父の思い」です。
頭ではわかっても、わが子を手放す不安と不ふびん憫な気持ちの狭間まで葛藤する父親もまた、すてきな家族といえましょう。
C子さんは、お父さんのその葛藤を見抜いていたのです。 
まったく生活面で自立できていないかに見えたC子さんですが、実は、自分から手を出さなかっただけで、ご家族の姿から学んでおり、少しだけ方法を教えてくれればそれなりに生活でき る潜在能力が潜んでいたようです。 
父親は、C子さんの施設利用を検討し始めています。

おわりに

ご高齢になられたご両親の多くは「何もできない不憫な子」と考え、長年宝物のようにそばに置き、また、子どもは高齢になってきた親を垣間見ながら、この先自分はどうしたらいいのか不安を感じつつ、手を打てないで過ごしまが必ずきます。 
通所や訪問看護等、家族でない人との信頼関係が構築されてくるなかで、それまでと違う自分を発見し、親への感謝の気持ちや、やさしさの感情が表出されることはよくあることです。

親を支えるということは、ともに暮らして介護をするということだけでなく、自分の身の丈の自律と経済的な補償を得て、親の苦労を分かち合い、ねぎらえることで、親の心の負担を軽くと思います。 
ご紹介した事例のように、親に感謝の気持ちを伝えたり、徐々に現状を受け止めてゆっくりでも立ち上がり、自分のことを大事にした暮らしをめざすこと自体、病気の回復とともに人としての尊厳の回復であり、生きる力の強みとしたたかさを感じます。
そうした変化に触れるたびに、「やるじゃない、あっぱれ!」と手を打ちながら、「看護はだからやめられない!」と感動する日々です。