私の人生の物語の書き換え(本人)


こころの元気+ 2012年1月号特集より


特集4
私の人生の物語の書き換え

埼玉県
西村勝さん


学校が苦痛で

私は、東京銀座で生まれました。もともと引っ込み思案の甘えん坊だったようです。
小学一年生の夏に埼玉県に転居しました。転校という環境の変化の契機を与えられて、もともと私の内部に潜んでいた人になじまぬ気質が、そのときしかるべく強く働き始めたからなのかもしれません。

子どもながらによほど苦しかったのか、その後小学校二年生の後半頃まではっきりした記憶がないのです。今覚えていることは、すぐ目の前にある学校へ通うことが私にはつらく、いやで仕方なかったということです。
今でいう登校拒否行動もあったらしく、集団行動は苦痛の連続になっていたようで、競争という概念にどうしてもなじめず、競争・競合しつつ組織内で相和していく構造に適応しにくかったようです。

単に精神の脆弱性ということなのでしょうか。基本的性格の形成がこの時期であるとすれば、この頃、神経質・内向性・メランコリー親和型性格と思われる内因が、成立していたということになるでしょう。

ひきこもり状態に

三年生くらいからようやく慣れ始めたようで、高学年になるにつれ、友人と遊んだ記憶も出てきました。しかし日常は言いようのない憂うつ感・虚無感に悩まされていて、高校生ぐらいから成績が徐々に低下しました。
大学に入学はしても無気力で、先行きについても特に具体的な目標は見出せず、一年留年しています。
銀行に就職しましたが、わずか二年で退職。両親と同居のまま、仕事に就かない今でいう「ひきこもり」・「ニート」状態を三年間ほど続けたあと、なんとかアルバイトを始め、「フリーター」状態を経てから再就職し結婚もしました。

その後も六、七年で転職をくり返し、四五歳のときひどくなって、ついに精神科を受診しました。
診断は、「WHOICD1-10気分-感情障害 F32-1-11中等症うつ病エピソード身体症状をともなうもの」というものでした。
カウンセリングを受け、医師からはとにかく余計なことは考えないで、それ以上落ち込まないように薬と休養をとり、じょうずに病気とつきあっていくこと、「今を生きろ」との指示です。

自分のできることを探す

それで、自分の性格にあった無理なくできることを探しました。
できるだけ組織に属さないで生きるにはどうすればいいのか。でも生活していかなくてはならないから、対人関係の少ない職人的な仕事はどうだということで、組織に頼らない自営業をめざしてみました。

しかし、それでもまた再発。今回は一人作業の仕事中なので、人間関係が直接の原因であるとはいえませんでした。そんな中途半端な人生をおくって、時は流れ去り、起業失敗でわずかな蓄えもついに底をつき、もう社会復帰プログラムなどクソくらえ、どうでもいいと思うようになりました。

障害者であることを受け入れて

どうすればいいのか、うつ病や福祉関係のことを調べていくうちに、自分が社会的にも「精神障害者」なのであるということを受け入れました。市役所福祉課に行き、精神障害者保健福祉手帳を知り、また障害年金を受給しました。

これまでの人生、何ともつまらない人生だったと思いました。五.六年周期で人生がフリーズし、リセットされる。自分自身が一番頼りない、信じられない ― ―こんな人生にいったいどんな意味があるのか。

徹底的な情報不足を痛感しましたが、たまたま福祉課で地元の当事者会を紹介され、そこから「埼玉県精神障害者団体連合会ポプリ」に加入していわゆる当事者活動を続けるうちに、それ自体が自信の回復過程・自分のアイデンティティ統一化の助けになってリカバリーを実践していたようです。

以来、セルフヘルプ活動として、ピア・カウンセリング・グループ活動を続けています。今年で六〇歳になります。